punimaruko157のブログ

主に急逝してしまった兄の話。

おじいちゃん

私が小学校低学年の頃、父親のほうのおじいちゃんが亡くなった。

葬儀には何人来たのだろうか。幼心にもかなりの方がいたように思う。

 

おじいちゃんは、亡くなるまでずっと一人暮らしだった。誰かが面倒をみていた、というのは特別なかったように思う。

ボケはあったのかな?そこまではよく覚えていない。

たまに母親に連れられておじいちゃんの所に行ったのを覚えている。

 

その度に母が愚痴に近いことを言っていた。

「おじいちゃんは小遣いもださねぇ」

 

おじいちゃんが亡くなってからだと思う。

母の具合が悪くなって入院したのは。

 

母は昔、「普通がいちばん。でも普通、って難しい。」と言っていた。

当時の幼い私にはこの意味がよく分からなかった。

 

時折、ものすごい勢いで怒鳴りつけたり、いつも使わないようなものを突然買ってしまったり、全く体が動かなくなったりすることもあった。

 

この、「普通」という言葉。

一体どういうことを持って普通、なのか。

その普通、って誰が作っているのか。

 

「常識」

これも私にはなかった。

風習的なものも一切やらなかった。

7歳の頃の七五三は覚えてる。

 

母がよく言っていた。

「うちにはお金がない」

幼い私にも、なんとなくはわかっていた。

 

兄がなくなり、母が亡くなり、改めてこの話を聞いてみた。

「働いてた時、どのくらいもらってたの?」

「その時で違うけど、最高で15万くらいだな」

私は返す言葉がなかった。

よくその収入で子供2人を育てたな、と。父に対して怒りの感情が湧き上がっていた。

さらに、私は父に問うた。

「お母さんはどんな存在だったの?」

「結婚の墓場だ。」

「ちょっとぼんやりでわかんないんだけど。どういうこと?」

「そんなこと聞いてどうするん?」

「私のこれからの人生の糧にするんだよ。」

「そんなのねぇよ」

「反りがあわなかった。」

「あわなかったの?じゃあなんで私が生まれたの?なんでそういうことしたの?」

「そんなのどうだっていいだろ。」

父は都合が悪くなると逃げる癖がある。

 

 

 

この時点で私は諭した。

全部母がやってくれてたということ。兄のテニスのラケット、ホッケーのステッキ、遠征代、私には楽器(トロンボーン)を買ってくれた。

一日練習といえばお弁当も作ってくれたし、母は1度叔母さんと演奏会を見に来てくれたことがあった。

私は母に対する見方が変わった。

こんなことを母方の叔母さんが教えてくれた。

「結婚する前に病気(恐らく精神病)で入院した」

私は、これは父が無理やり母に迫った結果から病気になったのでは、と想像してしまった。

 

 

兄が亡くなって、父は私に面倒をみてくれ、と一緒に住みたいという。

からしたら、何故もっと早くに兄に言わなかったのか。

そこが疑問である。もう少し、兄からも、どうしようか、という話をしてくれてもよかったと思う。私もそこは反省すべき点ではある。

父は兄に対してよく面倒をみてくれた、と言っていた。一方で父は、兄が結婚しなくてよかったと言っていた。

また私は父に対して怒りの感情が出てきてしまった。

父は家族をどう思っているのか。

父のおじいちゃんの話を聞きたいと聞いてみたことがあった。

父は、「そんなの知らなくていい」と言っていた。

もしかしたら、私はその話を聞いてショックを受けるのかもしれない。

 

私はどこまで知っていけばいいのだろう?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カセットテープ

今ではもうCDの売り上げも落ち込んできていて、(詳しくは

一般社団法人 日本レコード協会のサイトをご覧ください。)

私が敬愛するドリカムさんもCDとして作品を残すのはあなたとトゥラッタッタ♪(ご存知朝ドラまんぷくの主題歌)が最後になるかも、なんて話もある。

あなたとトゥラッタッタ♪ / THE WAY I DREAM

あなたとトゥラッタッタ♪ / THE WAY I DREAM

 

 その昔、レコードがあって、CDが出てきて、そしてカセットというものがあった。

 

当時実家の近所、歩いて15分くらいだろうか。CDレンタル屋さんがあった。

CDを借りてきてはカセットに録音して、気に入ったものに関してはテープが伸びるほど聞く、ということをしていた方もいらっしゃるのだと思う。

私が中高の頃などはラジオから知ったアーティストさんやビートルズカーペンターズなどたくさんの音楽を聴いた。

 

兄が亡くなった後、兄の自宅で発見したものがあった。

玄関を入ってすぐのところに物置のようなところがある。そこの扉を開けるとビニール袋に入ったものを見つけた。

それを取り出してみると結構な量のカセットテープが。10本はあっただろうか。

 カセットの中には、どんな曲が入っているのか、書き込むラベルみたいなものが入っている。

私はよく兄にこのラベルの曲を書き込むことをさせられた。

兄が書く文字は、独特の「くせ」があった。わかりやすく書いて欲しかったのでは、と当時の私はよく思っていた。

私は、一本一本そのカセットテープに書き込まれたものを見てみた。

f:id:punimaruko157:20190813140942j:image

ちょっとわかりづらいかもしれない。

拡大してみていただきたい。

 

f:id:punimaruko157:20190813141232j:image

これが私が兄に頼まれて書いたもの。

性格、人柄、でているでしょうか?

 

f:id:punimaruko157:20190813142540j:image

よく聞いていました。

ライブにも足を運んでいたようです。

f:id:punimaruko157:20190813143108j:image
f:id:punimaruko157:20190813143111j:image
f:id:punimaruko157:20190813143115j:image

この時の様子も、「笑ったなー。」と少し興奮気味に私に話してくれたのを覚えています。

この他にも、ライブやフェスに行った時のことなど私や飲み仲間などによく話していた。

 

カセットにはなにも書かれていないものが大半でした。

どんな曲が入っているのだろう?

プレイヤーもないので聞くこともできない。

だけど、たくさんの音楽をきき、ライブやフェスにも足を運んで、兄は楽しんでいた、という事実は変わらない。消えないものとして、綴ることとする。

 

 

わさび

ここのところ、よくご馳走になることがある。

先日は、ウイスキーを飲んでいる方と一緒に飲んだ。

私は、ハイボールにして頂いた。

 

乾杯する時、「思い出のハイボール。」と私が言ったら、「どんな思い出があるの?」と聞いてくださった。

「お兄ちゃんがよく飲んでた。ビールの後ハイボールだった。」

「お兄ちゃんかぁ。よく歌ってた。音痴でね。笑」

「私はカラオケ行ったことないよー。」

「でも見たけどね。」

私は、最後の日に歌う兄を少し動画で見た。とても楽しそうに歌っている様子だった。

 

それから少し経って、ママさんがこんな話をしてくれた。

私の兄が、わさび味の柿の種を(お店に)持ってきてくれたことがあって。

私はピンときた。それは、私が長野に行ったお土産に買ったものだった。

兄から食べてるよ、の写真がLINEで送られてきたのを覚えている。データは飛んでしまったのだけど、記憶としてしっかりと覚えている。そのLINEが届いたということが私には嬉しかった。

ママさんは、他のお客さんにも、とおすそ分けをしようとある女性に声をかけたところ、

「それは邪道だから私は食べない。」と言われてしまったという。

兄は、嫌な気持ちとかも表には出さないほうだったので、その時の兄は何も言わなかったのだそう。

兄のいいところというかダメなところというか。

もっとちゃんと、「妹からのお土産だったんだよ。」とか言えば、もう少し女性の対応も変わったのかもしれない。

 

 

 

 

夢を見た、その後

夢をみました|punimaruko|note

先日、こんな夢を見た。

寝起きも何だかすごくモヤモヤしていたのを覚えている。

それは、怒りにも似た感情だった。ずっと、「バカヤロー」と唱えている自分がいた。

なので、その場ですぐに携帯から、noteに書いた。

父とお風呂に行く日だったので、そのことを伝えてみようと、私は移動の車の中で聞いてみた。


夢をみました

ちょっと見づらい動画だとは思いますが。

 

父は自分からこういう話をすることはない。

私も思っていた。父は兄のことをどう思っているのか。

「俺のこと、忘れんじゃないよ。」

兄が父に対して思っているんじゃないかと、私は思ってしまった。

話は進むことはなかった。

兄の死が、父にとって大きなものだったことは確か。

実は、亡くなってすぐの時、私は父に、「お兄ちゃんのはどんどん捨てろよ」なんて言われていた。

一年が過ぎてやっと少しづつではあるけど、布団など処分し始めた。

そんなに簡単に捨てるなんて私にはできなかった。

動画を作るワークショップでお世話になっている講師の下村健一さんから、

「片付けも動画に撮っておくだけでもそれが残るから。やってみてごらん。」

とアドバイスをいただき、一部は記録として残してある。

少しずつYoutubeにもあげていこうと思う。

私の知らない兄が見えた。もしかしたら父も知らないということがあるのかも。

 

 

 

 

誕生日というトラウマ

兄が亡くなり、母が亡くなった。

各書類を書くにあたり、誕生日を記入する。

その時に私は父に思わず言ってしまった一言があった。

「誕生日もわからないの?」

 

私の家族は、風習的なものは一切やらない、と母親から言われた。私はそうやって育った。

人とは違う、人は関係ない、と。

だから、誕生日を祝う、ということをしたことがない。

クリスマスだって、ケーキすらなかった。

 

産まれたことを祝う、という風習が家にはなかった。

 

私誕生日だったんだよ。そう言うと父は、

「知らねえ」と言ったきり、会話が止まってしまった。

興味がないのである。

そこから私の心は急に閉ざされてしまった。

 

もう父には誕生日の話をするのはやめにしよう。

なかったものを無理やりつくる必要もないのかもしれない。

 

私を私とみてくれるのは誰?

 

 

 

 

 

 

 

嘘?本当?

 父とコミュニケーションをするとき、何度も同じことを聞かないと、その答えにたどり着かないことがよくある。

自分の都合のいいように答えるというか。

前にしてみた同じ質問をもう一度聞いてみるとまた違った答えが返ってくる。

これは父のような老人だけではない問題なのだろうか。

 

私は事実を知りたい、と思ってコミュニケーションをしている。

「家族」とは何なのか。

まだまだ知りたい。兄のこと、母のこと、父のこと。

父が忘れた、と言わないうちに知っておきたい。

 

まだまだ、私の旅は続く。

 

 

 

難民の日

6月20日。世界難民の日ということを知っているでしょうか?

 

難民。それは、遠い国のことと感じると思う。

だけど、それは身近なところにも見受けられるということ。

 

数日前、私は父に呼ばれて家に向かった。郵便が届いているという。

すぐに父の元へ向かった。

すると4つで一つになっているヨーグルトを手にした父が立っていた。

冷蔵庫に持っていくところだった。

戻ってくるとその一つをわざわざ私の手に持たせて、「スプーンそこにあるから食べろ」と父が勧める。

国民年金でそんなに多くない年金生活である父に私はいつもはいらない、と拒否に近い遠慮をするのだが、その日は手に持たされてしまったので拒否もしずらかった。

すぐに私は置いてあるスプーンを使って、「持たされた」ヨーグルトを食べた。

食べ終わるとさらに父は、「バナナ食え。」と私に勧める。

こたつには、数本のバナナがあった。

私はその一本を食べた。

 

後日、私は父をお風呂に連れて行った。

これは私の「義務」とも考えている父に対する孝行だ。

兄がしていたことだったから私がしなくては、という私の責任感からだ。

話を色々と聞いてみると、父はお風呂はそんなに好きではないということがわかった。

小さい方がいいという。家族と一緒に入りたいとも言っていた。

父はその後に行く、「ご飯屋さん」での時間が好きなのだ。いつもの中華屋さんに着くと、すぐに席に案内してくださった。

retty.me

働いている人たちみんなに声をかける父。「待ってましたよー」なんて声をかけていただいた。父のにやけた顔が従業員の方たちの心を和ませる。

 

父はいつもの味噌ラーメン、私はここの名物でもあるトマトラーメン(この日は冷やしトマトラーメンを食べました。)を注文。

私は餃子はどうする?と一言父に聞くと、「久しぶりに食うベぇ」と餃子も注文した。

父の食べる量に変化があったため、一皿での注文だった。

 

父は味噌ラーメンを少し残してしまった。もう食べれないという。どうして食べれないのかはちょっとまだわからない。

それを餃子のお皿で隠すようにどんぶりの上に置いた。きっと作ってくれた人に対して悪いと感じたのだろう。

その昔、私たち兄妹は父から「作ってくれた人に悪いから、残すんじゃないよ。」と言いつけを守っていた。

 

食べ終わり、会計をすると、「若い子にもこうやって親孝行するんだよ、」って言いました。なんてお声かけを。「いい娘さんじゃないですか。」と私を褒めてくださった。

私は、「たまにだから。大したことしてないですよ。」とここでも謙遜してしまった。

そして、私は父に聞いてみた。

「お父さんにとって私はいい娘?」「あぁ当たり前だっぺ」と、言ってました。視線は店員さんに向いていましたが。

 

 

 

どんなに貧しい生活でも、自分のために来てくれる人にはもてなしたいし、もてされたらそれに対してしなくてはならないことがあるということ。

 

これは遠い国の話では決してないこと。

 

知っていただきたい。

 

そんな、「私」がいること。

 

忘れないでいただきたい。

 

それだけでいい。