すき焼き
「すき焼き」というと、「いい牛肉を使ってお野菜たっぷり」、といったイメージになるだろうか。
我が家のすき焼きは、お肉はぶた。(どうやらこれは土地柄独特のものだったということをのちに知ることになった。)
そのほかの具はしらたきに長ネギ、お豆腐白菜、えのきや椎茸、彩りに人参、といった感じだろうか。
醤油味の甘辛。
たまに食べるすき焼き。私は特に楽しみ、というわけではなかったけど、具をたくさん母親が用意していた。
専用の鉄鍋を使って、既に鍋いっぱいになったものがうちのすき焼き、である。
こう考えると、母親はとても一生懸命に私たちに食事を作ってくれていたのだと感じる。
父親はすき焼きが好きだったようだ。
もう母が作るすき焼きを食べる事はできなくなってしまったけれど、いつかいい牛肉を使ったすき焼きを食べさせたいなと思った。
817
今日は「パイナップルの日」…南米から世界へと広まったきっかけは?(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース
ご存知だろうか。
8月17日はパイナップルの日、なんだそうだ。
語呂からきているので、他にもいろいろできそう、なんて思ってしまう。
今年の誕生日、ある方からパイナップル(丸ごと一個)をいただいた。
うちの父である。
正確にいうと、「誕生日を数日たった後の日曜日」にもらったのだ。
普段私にはない。あげる、と言われてもらったものもあったのだが、大概は父が使わないから、いらないからという理由でもらうことが多かったのでもらうことを拒否していた。
こういうことがあったから、正直びっくりした。
元々、誕生日を祝う、という風習が私の家ではなかった。それもあったので余計に不思議でしょうがなかった。
どうしてプレゼントをくれたのか、私は父に問いただしてみた。
「悪いと思ったから」
兄のことを思ってのことだったのだろうか。その時その時で私がやるしかなかった、というのが大半。できないこともできないなりにやるしかなかった。
「いろいろと苦労してるから」
私は苦労と思ってやっていないところもある。やはりその時その時で一生懸命やるしか私はできなかった。
労い、という意味だったのだろうか。
さらに、
「6月か7月かわからなかった」という。
私が産まれた日のことを父は覚えているのだろうか。
昔、母に聞いたら答えてくれた。
また、そのパイナップルはいくらだったのか聞いてみた。
550円だったという。
もらったパイナップルは底が熟している感じがしていた。色が少し変わっていた。
「安いから」と父が言っていたのでそれは値引きされた金額だろうなと想像ができた。
誕生日から1ヶ月以上経ったある日、またパイナップルを父からもらった。
「もらって」というので家で切ってみた。
熟されるというよりは腐る、という感じだったので食べる気にはならなかった。
果汁も少し漏れていたし、皮には少しカビが生えているのが見えた。
それでも私は切って中身を見てみた。望みがあった。これだけでも私は十分だった。
だけどやっぱり無理だった。
私はもう一度父に問うてみた。
「いつもらったの?」
「んー、2、3日前。」
父はもらったから私にくれる、と言っていたのだ。
2、3日前にもらった時にはすでに熟し切っていて、それがさらに進み、カビが生えてしまっていた、ということなんだと推測した。
私は何のために産まれたのか、父に聞いてみたいと思った。
しばらくパイナップルを食べずに生きていこうと思う。
またある日、父がパイナップルとお酒を持ってきた。
今度は私に、と「レタス」とみかんが袋に入っていた。
私は父に聞いた。
「なんでレタスなの?」「いつもの八百屋さんがくれたん。」
いや、そういうことじゃない。父はいつもちゃんとした答えを言わない。
さらに聞いてみた。
「痩せた方がいいかな。」「うん。」
ほら。そういう話を八百屋さんにしていた、って話になるでないか。
「お前の好きにしたらいいよ」
パイナップルとお酒は、いつもお世話になっている中華屋さんに、「差し入れ」と称して持って行っている。
「いつもすいません」と言われ、私も苦笑いをしながら「いいえ。」と答えてしまう。
父には持っていかないで、と言っても持ってくるからだ。
何度言っても聞かない。それが父だ。
今回も、父は持って行った。
ここ最近は、私の車まで取りに来てもらうようにしている。父も足腰が弱くなってきた。
渡すと、いつものように「すみません。こんなにいっぱい。」
苦笑いで「いいえ。」と答える私。
すると、続けてこう話してくれた。
「うちの娘がつわりで、全然食べられない時にちょうどもらったパイナップルあるけど、って言ったらそれだけは食べる、って」
「えーっとね、なんだっけな。パイナップル、梨、あとグレープフルーツ。」
「お父さんありがとう。」思わず私が父に言ってしまった。
「そのうち私もそういう時が来るかもしれないから。」
きょとんとした顔をしていた父が印象的だった。
私が家族を持つことには父は前向きではない。むしろ、私が話題にすると、腕を組んで難しい顔をしてしまうのだ。
「お母さんもそういう時あったんじゃないの?」
「知らねぇ」
父は本当にこういう物事に関して無関心である。兄や私のことについて、「この時こうだった」という話をしても、「そうかや」と返すくらいで、父はどう両親に育てられたのだろうと疑問を抱く。
私がパイナップルを美味しく食べる日は来るのか来ないのか。
大根おろし
「母さん何食べる?」
「大根おろし。」
兄が運転する車の中で、母は弾んだように答えた。母の通院の帰り、どこかしらのお店に寄るのがいつものコースだった。
大根おろし?なんのこと?と1人浮いたような気持ちでいると、住宅街のなかにある見慣れないお店についた。
駐車場は数台。
扉を開けるとちょっとしたスペースがあり、暖簾をくぐって右手をみるとテーブル席とお座敷があるのがわかる。
その割合は6:4といったところで、外観からの見た目よりは広めのお店。
お座席に座ると私はメニューを開いた。
定食が多く、どれも美味しそうだった。
当時は何組かのお客さんがいて少し賑わっていた。
私はとにかく母の言う「大根おろし」が気になってしょうがなかったので母と同じメニューを頼んだ。
兄はたくさん食べる方だったので、ヒレカツ定食の3個あたりだったように思う。
頼んでから数分、頼んでいたものが目の前に。
中央にはキャベツの千切りと共にカツが見えないほどの大根おろしが見えるのが印象的だ。
左下にはごはん、右下には味噌汁がある。
そしてサイドにはピクルスや煮物、ちょっとした副菜がついていた。
当時母は入れ歯を使って食べていた。
そんな母でも食べれるほどのカツの柔らかさだった。
さらに上に乗った大根おろしが食べやすさを助長した。
何回も行ったというわけではないが、母のトンカツを満足そうに頬張る顔が今でも忘れられない。
母は何回ここのとんかつを食べたのだろう?
この話を父は知らなかった。
母の満足そうな顔を父は知らない。
知らない、ということはないのかもしれないが、ここのトンカツを父は食べたことがなかった。
いつか、食べに行ける日はくるのだろうか?
お酒
私の兄は、お酒を飲むことが好きだった。
だけど、強い方ではなかったようでもある。
亡くなったその日も兄にとってはたくさん飲んでいた。
私が高校のころだったか。
兄の部屋にジャックダニエルが飾りとして置いてあった。
家で飲んでいる姿を私は見たことがない。
兄が亡くなって、兄の家には少し残っていたウィスキー(トリス)と、開けていないウォッカがあった。
残っていたウィスキーは私がハイボールにして飲んだ。
飲み口がすっきりしていてとっても美味しかった。
よく、バーに立ち寄ることがあったようなので、家でもカクテル的なものを作りたかったのかな、なんて想像をしてみた。
ウォッカにはよく見ると、DUTY FREEの文字がある。
海外に行った方が兄のためにとお土産だったのかもしれない。
そのまま飲むにはあまりにも度数が強い。
だから兄はそのまま開けずにいたのかもしれない。
私の兄はお酒を飲むことが好きだった。
仲良くしていた飲み仲間が教えてくださった。
「強いお酒をロックで飲んでたよね。」
そのままの味が好きだったようである。
唯一、私が一人暮らしの兄の部屋に泊まらせてもらった時、帰ってきてからもウィスキーをロックで飲んでいた。
今でも印象的な兄のワンシーン。
兄にとってお酒は、自分と対話するためにあったのではないかな、と私は想像した。
桑田さん
私は、この明日晴れるかなが好きだ。山Pこと、山下智久さんが主役のドラマの主題歌だった。ドラマも面白かった。
先日、サザンファンという方とお会いして、この曲を歌っていた。
この曲も私は好きだ。
兄はサザンが好きだった。
亡くなる前の数年は桑田さんのソロとしての活動の方が好きだったみたいだ。
車の中のBGMも、桑田さんソロのものがたくさん取り込まれていた。
特に、12月に行われているAct Ageinst Aidsでのイベント、「ひとり紅白歌合戦」が大好きだったようだ。
事あるごとに、兄はそのDVDをお隣さんの喫茶店でよく見ていたという。
また、先日公開された寅さんの映画でも桑田さんがオープニングテーマを歌っている。
私は寅さんが好きだった兄のために作ってくれたのかと、涙を止めることはできなかった。
いつか桑田さんのライブにも足を運びたい。
尾瀬
先日、私はいつもの温泉に父と出掛けた。
お風呂から上がると、たまにお客さん同志、おしゃべりをすることがある。
人生の先輩方から色々なお話を伺える。
そのお方は山登りが大好きとおっしゃっていた。
77歳で、もう山にはいけなくなっちゃったよ、と残念そうにしてらした。
山の魅力はなんですか?と私は聞いて見た。
「尾瀬には行ったことある?」
「私ないんですよ。恥ずかしくて。」
私は尾瀬の玄関口と呼ばれている群馬県沼田市の出身。生まれて育った。
その方は、昔、山小屋に住み込みで勤めていらした。
ニッコウキスゲがとっても綺麗、と教えてくださった。
星もすごく綺麗に見えるんだそう。
沼田市に住んでいるだけでも星は割とよく見える方ではあるけど、比にはならないほどなんだそうだ。
空気が澄んでいる、ということ。いい酸素も吸える、ともおっしゃっていた。
父は行ったことあるかな?早速聞いてみた。
「仕事で行ったよ。」
「え!そうなんだ!」
「じゃあ水芭蕉みた?」「みた」
「星が綺麗だって言ってたけどみた?」「みたよ。」
「玉原(たんばら)なんて比じゃないって言ってたけどわかる?」「わかる。」
「そーなんだぁー。」
なんでも山小屋を作る仕事だったそうで。どこの山小屋かはわからないですが。
機会があったら行ってみたい場所になった。
車のシート
「寒くなったいなぁ。」
父はそう言って兄が乗っていた車に乗り込む。
「急に寒くなったよね。」
私はそういうと、シートの暖房にスイッチを入れた。
「この車ね、シートがあったかくできるの。あったかくなった?」
「うん。いくらかな。」
私はさらに父に尋ねた。
「お兄ちゃんもあったかくしてくれた?」
「うん。してくいた。」
「あそう。お兄ちゃん優しいね。優しいね、お兄ちゃん。」
私は知らなかった。
父は、寒いのにかかわらず、ストーブを使わなかったという。
それなのに、いつも行く中華屋さんにはお歳暮、とか言ってお酒とおみかんを買ってわざわざ渡すという。
自分のことは二の次なのだ。
父が自発的にすることを、私は止めることはできなかった。
年金生活で家も長い間借り屋で、ボロボロの家に住んでいる。雨漏りなんかもひどい。
そんな父がいつもお世話になっているからと気を使って手土産を持っていく。
そして、ちゃんと「おみかん美味しくいただきましたよ。」と声をかけていただいて。
父にとっては大事な「居場所」なんだと私は感じた。
私は思い出した。
大好きなジャーナリスト、堀潤さんの取材のお話し。
「僕が家に伺うと、わざわざ僕のためにグレープジュースを買ってきてくれるんです。」
綺麗なガラスのグラスに注がれたグレープジュースの写真を見ました。
こちらの記事もご覧いただけると幸いです。
父の姿を見て私はガザを感じました。
ガザの人たちは幸せかな?