punimaruko157のブログ

主に急逝してしまった兄の話。

桑田さん


桑田佳祐 - 明日晴れるかな

 

私は、この明日晴れるかなが好きだ。山Pこと、山下智久さんが主役のドラマの主題歌だった。ドラマも面白かった。

 

先日、サザンファンという方とお会いして、この曲を歌っていた。


桑田佳祐 - 月

この曲も私は好きだ。

 

 

兄はサザンが好きだった。

亡くなる前の数年は桑田さんのソロとしての活動の方が好きだったみたいだ。

車の中のBGMも、桑田さんソロのものがたくさん取り込まれていた。

特に、12月に行われているAct Ageinst Aidsでのイベント、「ひとり紅白歌合戦」が大好きだったようだ。

 

事あるごとに、兄はそのDVDをお隣さんの喫茶店でよく見ていたという。

 

また、先日公開された寅さんの映画でも桑田さんがオープニングテーマを歌っている。

私は寅さんが好きだった兄のために作ってくれたのかと、涙を止めることはできなかった。

 

いつか桑田さんのライブにも足を運びたい。

 

 

 

 

尾瀬

先日、私はいつもの温泉に父と出掛けた。

お風呂から上がると、たまにお客さん同志、おしゃべりをすることがある。

人生の先輩方から色々なお話を伺える。

そのお方は山登りが大好きとおっしゃっていた。

77歳で、もう山にはいけなくなっちゃったよ、と残念そうにしてらした。

山の魅力はなんですか?と私は聞いて見た。

尾瀬には行ったことある?」

「私ないんですよ。恥ずかしくて。」

私は尾瀬の玄関口と呼ばれている群馬県沼田市の出身。生まれて育った。


夏の思い出【合唱】

 

その方は、昔、山小屋に住み込みで勤めていらした。

ニッコウキスゲがとっても綺麗、と教えてくださった。

www.oze-hiking.com

星もすごく綺麗に見えるんだそう。

沼田市に住んでいるだけでも星は割とよく見える方ではあるけど、比にはならないほどなんだそうだ。

空気が澄んでいる、ということ。いい酸素も吸える、ともおっしゃっていた。

 

父は行ったことあるかな?早速聞いてみた。

「仕事で行ったよ。」

「え!そうなんだ!」

「じゃあ水芭蕉みた?」「みた」

「星が綺麗だって言ってたけどみた?」「みたよ。」

「玉原(たんばら)なんて比じゃないって言ってたけどわかる?」「わかる。」

「そーなんだぁー。」

なんでも山小屋を作る仕事だったそうで。どこの山小屋かはわからないですが。

 

機会があったら行ってみたい場所になった。

 

 

車のシート

「寒くなったいなぁ。」

父はそう言って兄が乗っていた車に乗り込む。

「急に寒くなったよね。」

私はそういうと、シートの暖房にスイッチを入れた。

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「この車ね、シートがあったかくできるの。あったかくなった?」

「うん。いくらかな。」

私はさらに父に尋ねた。

「お兄ちゃんもあったかくしてくれた?」

「うん。してくいた。」

「あそう。お兄ちゃん優しいね。優しいね、お兄ちゃん。」

私は知らなかった。

 

父は、寒いのにかかわらず、ストーブを使わなかったという。

それなのに、いつも行く中華屋さんにはお歳暮、とか言ってお酒とおみかんを買ってわざわざ渡すという。

自分のことは二の次なのだ。

父が自発的にすることを、私は止めることはできなかった。

年金生活で家も長い間借り屋で、ボロボロの家に住んでいる。雨漏りなんかもひどい。

そんな父がいつもお世話になっているからと気を使って手土産を持っていく。

そして、ちゃんと「おみかん美味しくいただきましたよ。」と声をかけていただいて。

父にとっては大事な「居場所」なんだと私は感じた。

 

私は思い出した。

大好きなジャーナリスト、堀潤さんの取材のお話し。

空爆が続くパレスチナ自治区のガザでの出来事。

www.asahi.com

「僕が家に伺うと、わざわざ僕のためにグレープジュースを買ってきてくれるんです。」

綺麗なガラスのグラスに注がれたグレープジュースの写真を見ました。

こちらの記事もご覧いただけると幸いです。

gardenjournalism.com

 

父の姿を見て私はガザを感じました。

ガザの人たちは幸せかな?

 

 

あの日のこと

平成30年3月15日深夜1時45分頃、私の兄は交通事故で息を引き取った。

 

私はその前日、シンガーソングライターのLOVEさんのライブをみに渋谷にいた。

http://lovesings.jp/

 

LOVEさんを知ってからもう10年は経っている。今でも大好きなアーティストの1人。

その日も聞きたい曲をたくさん披露してくれた。

私は上機嫌で渋谷を後にした。

当時、相模原に住んでいた私はライブがあった次の日、兄に会いにいく予定でいた。

目的は、「家族とはなんだろ?」というタイトルで動画を制作していたので、その続きとして、撮影できたら、と考えていた。

カメラを向けることで、家族とのコミュニケーションが生まれたことが1番の私の宝物となっていることも伝えたい。

音楽好きの兄に、ライブの話もできたら、とも考えていた。

今思えば、LINEだけでもしておくべきだったと、とても大きな後悔が私を苦しめる。

明日行くからね、なんでこの一言が伝えられなかったんだろう。

夜中の2時をまわった頃、私の携帯に一本の電話が入った。

なんだろ、と私は電話には出ずにいた。

また同じ番号でかかってくるので電話に出ると、

地元の病院からだった。

 

電話の内容は、

兄が交通事故にあって亡くなった、ということだった。すでに父親がいるということだった。その時母は入院していた。

心臓が出てきそうになる、ということはこういうことをいうのだなと思った。

私は慌てて実家に向かう準備をして、朝一の電車で向かった。

相模原から群馬県沼田市までの道のりが長いので、父のことが心配だった。

私は父が信頼していそうな人はと思いついたのが幼馴染のお祭りで一緒の女の子。

連絡を入れるとすぐに父の元に駆けつけてくれた。

私も新幹線で向かうと、駅に迎えに来てくれた。

彼女はいつものようにちょっとクールな感じで、「大変だけど頑張るんだよ」みたいなことを私に言ってくれた。

たわいのない話もしたかと思う。本当にあの時は助けられた。何度感謝をしても足りない。

朝の8時を過ぎた頃だろうか。病院にたどり着いた私はまずは父の元へ。

気が動転しているのもわかった。

「葬式どうする?」というのが父の第一声だった。

私はちょっと待って、まずはお兄ちゃんに会わせて。と霊安室に向かった。

看護師さんの立会いのもと兄と再会をした。

まさかこんな形で再会するとは思っても見ないし、その時は「お兄ちゃん何やってんの」という気持ちでいっぱいだった。

葬儀屋さんが病院まで迎えに来てくれて、改めて兄の顔を見てみた。

まるで「ちょっと寝てるから」、みたいな感じの顔をしていて、「起きてよ!」と言ったら起きるんじゃないか、なんて思えるほどでもあった。

お兄ちゃんのあの顔は一生忘れない。

 

その後も幼馴染ちゃんや近所の人、お兄ちゃんが大事にしていた飲み仲間や同級生、いろんな人が兄のところに来てくれた。

葬儀も、たくさんの方に参列していただいた。

何よりもそれが嬉しかったし、兄の存在の大きさに気づけた。

そして、悲しみの大きさを知って、兄のことが大好きだった自分に気づいた。

私が大好きなお兄ちゃん、お兄ちゃんが生きていたことを伝えたい。

 


3月課題(短いです(ノД`))

 

 

 

コンビニコーヒー

 

punimaruko157.hatenablog.com

 

私は、20代の前半の頃、コンビニでバイトをしていたことがあった。

当時車がなかったので、夕勤や土曜日の出勤の時、たまに迎えに来てもらうように兄に頼んだことが数回あった。

 

確か土曜日の出勤の時だった。

兄が迎えに来てくれて、私のシフトが終わるちょっと前に店に入ってきた。

するとドリンクのホットコーナーからコーヒーを一つとってレジに来た。一緒に働いていた先輩のパートさんが対応してくれた。

お兄ちゃんは、すぐさまテープでいいと伝えてくれた。相手のことを考えての一言が言える兄である。

パートさんに、お兄ちゃんです、なんて話したら、「かっこいいね。」と言ってくださった。

私は思わず謙遜してしまったけど、かっこいいお兄ちゃんだった。

 

 

 

兄にいろいろなお店に連れて行ってもらった時の話。

あるラーメン屋さんに入って、ラーメンと餃子、それから兄はお酒を頼んだ。

餃子とお酒、私の飲み物はすぐにきた。

しかし、待てど暮らせどラーメンは来ない。お店自体も終わりの時間に近づいていたせいもあったので、店員さんたちは片付けに入っているようだった。

「忘れてるよなぁ。」気づいた兄はどうしたかというと、そのまま餃子とお酒、私も飲み物を飲み干して帰ることに。

「どうするんだろう?」と私は思った。兄が先に会計をしていることに気づいて、ちょっと聞き耳を立ててみたら、店員さんにちゃんと伝えていました。

頼んだラーメンが来なかったですと。

私だったら言えないかもしれないなぁとその場で思いました。レジに行って、自分からは言えず、伝票を見た店員さんが気づく、みたいな感じになるのかなぁと。

「お兄ちゃんすごい!」

と私は思いました。すごくないですか?言えますか?

 

ここ、というときに大事な一言が言える兄でした。

本当にかっこいいお兄ちゃんでした。

 

 

 

 

 

 

はんぶんこ

うちの父親は、鳶職をしていた。

鳶というのは、家の基礎を作る仕事、と父親が言っていた。

実際に父が働く姿を見たことがなかったので、説明がぼんやりなのがちょっと申し訳ない。

 

たまに、建前だ(上棟式ともいう)と言って、オードブル(父はおり、と言っていました)をお土産に持ってくることがあった。

たまにお餅とか、硬貨(5円10円、50円、もあったかな)もあったりして。

 

オードブルの中には、鶏モモの骨つき照り焼き、みたいなのが決まってあって。

いつも母親が、「お兄ちゃんとはんぶんこね」なんて言ってた。

想像できるでしょうか。

骨側とモモ側と、という具合になる。

私は割と骨側を食べることが多くて。

それで喧嘩になることがあった。

喧嘩、というか、私が決まって泣いて、親がなだめるということが度々あった。

 

いつしか兄が折れて、鶏モモを私が独り占めするようになっていた。

あの時兄はどう考えて折れたのかな。

 

また食べたいな。「おり」に入ってた鶏モモ。

 

ビニール傘

私は、いつものように父親をお風呂に連れていった。

迎えに行くちょうどその時、雨が降っていた。

父のところにちゃんとした傘がないことを思い出した私は、家にあった割と新品のビニール傘を車に積んだ。

 

お風呂に入り、いつものところでごはんを食べ、送って行った時。

傘に気づいた父は元々あった”ちょっと古い“傘に手を添えた。

「あ、それだめ。お兄ちゃんのだから。」

「お父さんのはそんなに新しいのじゃない。」

「いいよ?お兄ちゃんのでよかったら持ってってもいいよ?」

最終的に父は兄の傘を持っていった。

 

私は父にも最後まで兄の事を忘れないでいてほしいと思っている。

もうなかったことにしたい、そう父が願っていたことを知った。

忘れないで、これは私の押し付けになるかもしれない。

だけど、少なくともわたしたち家族は自分の命がなくなるその日までは兄が生きていた、ということを胸に刻んでいかなくては、と考える。