平成とは
先日、渋谷ヒカリエで宇野常寛さん主催のPLANETSの大忘年会と題して今年を総括したり、来年の話をしたり、平成とはなんだったのか、という非常に刺激を受ける内容のイベントに参加してきた。
中でも、最後のターン、「平成とはなんだったのか」という宇野さんと同世代の4人が集まっての議論が私には印象に残っていた。
私たち兄妹もほとんどを平成の時代に身を寄せてきた。兄は私の4つ上であった。
兄が高校の時の話。進路を決めるにあたって学校でオリエンテーションなどがあって、
専門学校に行きたいと考えていたようで、パンフレットなどが家にあったのを覚えている。
兄はパソコンの専門学校に行きたかったということを私も高校の時くらいに知った。
しかし実際は地元で製造業の工員として就職することになった。進学することを許されなかった。
これはあくまで私の想像。高校の頃からライターになりたいと考えていたのでは?と思う。
当時の会社の給与明細を覗いてみると、皆勤手当が毎月のように支給されていた。
年末など仕事が増える時期は残業や土曜日出勤も積極的に参加していた。
兄が製造に関わっているという製品がテレビに映ることがあって、「俺が作っているんだ」と自慢をしていたことがあった。その時は私も素直にすごいなぁ。と思っていた。
そんな兄を見ていたので、きっと定年まで働くんだろうなぁ。と勝手に思っていた。
ところが、40になったくらいの頃だろうか。
突然の兄からのLineで、長年勤めたその会社を辞めたと連絡があった。結構大事なことだけど、大事なことだからこそLineで伝えるしかなかったのだと思う。ちなみに私も離婚したことをLineで伝えた。
私はまた勝手に思った。長く入院している母を想って介護の仕事でもするのかな?と。
兄はまた違った職種(アパレル)で自分を試してみたい、チャレンジしたいと考えていたようだ。
歳も歳、というのもあり、経験も全くない状態だったのでそこはちょっと茨の道だったのかな?と想像する。
転職活動をする中で、兄は職業訓練校でPowerPointを習っていた。その時のものを見せてもらったことがあったが松田優作を愛する兄だからこその言葉が綴ってあって、私もすごい、と兄を褒めていたことを思い出した。
実際に勤めたのは派遣で、ある製造業で、またコツコツと働いていた。お世話になった社長さんはじめ、一緒に働いていただいた皆さんに改めて心からの感謝を申し上げます。ありがとうございました。
平成最後の年、兄は突然亡くなってしまった。
これも私の想像。全くのオピニオン。
きっと兄も昔から自分の思うように生きてこれてはおらず、これから先、どう生きていくのか、どう働いていけばいいのかということを悩んでいたのだと思う。
ここはもっと私も話を聞いてあげたかった。アドバイス、なんてことは言えないにしても、兄を助けることのできる人が私の周りにいたかもしれない。わからない。そこまではわからない。
思い通りに行かなかった兄の人生もまた、昭和を引きずった、「バカヤロウ」な時代だったのかもしれない。