punimaruko157のブログ

主に急逝してしまった兄の話。

誕生日

7月6日は、私、ぷにまるの誕生日である。

年齢はご想像にお任せするとして、今年はSNSを通じてではあるけど、たくさんの方からおめでとうの言葉をいただいた。

 

奇しくもこの日はオウム裁判で死刑判決がされていたうちの7人の刑が執行されたという、歴史的な1日でもあった。

死刑執行されたご家族は事後報告でその事実を知るようだ。報道で知った、という方もいたそうだ。

地下鉄サリン事件は当時学生だった私でも鮮明に覚えている。

 

今回の7人の死刑執行は、私の兄と同じような状況、ということになる。

 

本当にテレビはそのニュース一色になってしまった。

 

思わず私はテレビを消してしまった。体調にきてしまった。

 

また、西日本を中心に大変な豪雨に見舞われた。

自然災害もまたすごく怖い。

改めて被害に遭われた方のお見舞い、亡くなられた方のご冥福をお祈りします。

復旧と復興にはどれだけの時間とお金と労力がかかるのだろう?

 

本当に感じていた。

「メディアが伝える8割は不幸」ということを。

これは、映画監督で作家の森達也さんのお言葉である。ドキュメンタリー映画の「A」(オウム真理教を内側から描いているもの)は、本当はテレビのメディアで流したかったと仰っていた。

それが理由で流せなかったので映画にしたそうだ。

センセーショナルなことが起こると一斉に各メディアが報じる。ここでいうメディアというのはテレビ局、ということになる。

映像から得る情報とういうのは本当に伝わりやすい。

私も動画を撮ってみてわかった。「どこを撮るのか」によってもそれは伝わる意味が違ってくる。

また、それを、「どう伝えるのか」にも伝わり方がある。

オウム事件を語るには、まずメディアがどうだったのか、というところから議論しないといけない、という見方もあるという。

 

 

こんなことをコメントしてくださる方がいらした。

 

言語を使う≒意識に浮かんでくるもの

って、「自分にとって危険があるもの」について起きるらしいですね。

実際、「ほっといてよいものは、意識にのぼらなくてもなんとかなっちゃう」わけで。

ある意味、存在の危険回避行動として意識は「都合の悪いこと」によって占められているわけです。

故に、考えることは、「不幸になる可能性」について

思考しているって状況が圧倒的に多い。

まず、そこを見直して「自分が幸せである自覚」を意識的にしないと釣り合わないんですよねぇ・・・

 

そのまま、ありのままの状態が幸せ、ということとなる、んだそうで、

私自身、まだいまいちピンときていないところがあるのだけど、

「自分が幸せである自覚」がたりていない、というところなのだろうか。

 

嬉しかった言葉の1つに、

たくさんの愛が集まって、いつも心がポカポカしていられるような一年になりますように。

というものがあった。

これは、私が温泉好きということと、自分でいうのもなんだが、癒し系、みたいなものがあるのかな、

という風に感じた。

笑顔が魅力。これからもみんなに笑顔を届けてね。

なんとも嬉しいひとこと。笑顔が魅力、ってすごく嬉しい。

最高に幸せな一年にー!とか、楽しいこともたくさんあるよ、とか、好きなことを好きなだけ、自分の為に!って言葉も響いた。

また、兄がよくお世話になっていたケーキ屋さんにてケーキを買って食べた。

オーソドックスなイチゴと生クリームのケーキを選んだ。

本当に美味しかった。

また、兄のある友達と食事もしてたくさん話した。そのお友達は、「悲しくて悲しくてたまらなくて、今日もどうなるかと思ってたんだけど、思ったより楽しく過ごせた」といってくれた。

 

兄の話をしていくとどうしても涙で潤んでしまう時があったが、時に面白いエピソードなど話せば笑顔に。そういう兄だったということか。

兄はずっと妹思いだったと仲がよかった友達はみんな言う。

私は映画「万引き家族」に出てくる兄妹のように兄の後ろを常についていくような、そんな妹だった。

そういえばこんなことがあった。

誕生石が入ったブレスレットが兄が亡くなって直ぐ後に切れた。

今思うと兄が守ってくれていたのかなぁ、と。

一緒に食事をしてくれた友達がこんなことを言っていた。

「もしかしたら添い寝してるかもよ?」

「えー!それはやめて?」思わずこう返してしまった。

 

お兄ちゃん、今頃どのマドンナのところにいるの?ねぇ、寅さん。