誕生日
7月6日は、私、ぷにまるの誕生日である。
年齢はご想像にお任せするとして、今年はSNSを通じてではあるけど、たくさんの方からおめでとうの言葉をいただいた。
奇しくもこの日はオウム裁判で死刑判決がされていたうちの7人の刑が執行されたという、歴史的な1日でもあった。
死刑執行されたご家族は事後報告でその事実を知るようだ。報道で知った、という方もいたそうだ。
地下鉄サリン事件は当時学生だった私でも鮮明に覚えている。
今回の7人の死刑執行は、私の兄と同じような状況、ということになる。
本当にテレビはそのニュース一色になってしまった。
思わず私はテレビを消してしまった。体調にきてしまった。
また、西日本を中心に大変な豪雨に見舞われた。
自然災害もまたすごく怖い。
改めて被害に遭われた方のお見舞い、亡くなられた方のご冥福をお祈りします。
復旧と復興にはどれだけの時間とお金と労力がかかるのだろう?
本当に感じていた。
「メディアが伝える8割は不幸」ということを。
これは、映画監督で作家の森達也さんのお言葉である。ドキュメンタリー映画の「A」(オウム真理教を内側から描いているもの)は、本当はテレビのメディアで流したかったと仰っていた。
それが理由で流せなかったので映画にしたそうだ。
センセーショナルなことが起こると一斉に各メディアが報じる。ここでいうメディアというのはテレビ局、ということになる。
映像から得る情報とういうのは本当に伝わりやすい。
私も動画を撮ってみてわかった。「どこを撮るのか」によってもそれは伝わる意味が違ってくる。
また、それを、「どう伝えるのか」にも伝わり方がある。
オウム事件を語るには、まずメディアがどうだったのか、というところから議論しないといけない、という見方もあるという。
こんなことをコメントしてくださる方がいらした。
言語を使う≒意識に浮かんでくるもの
って、「自分にとって危険があるもの」について起きるらしいですね。
実際、「ほっといてよいものは、意識にのぼらなくてもなんとかなっちゃう」わけで。
ある意味、存在の危険回避行動として意識は「都合の悪いこと」によって占められているわけです。
故に、考えることは、「不幸になる可能性」について
思考しているって状況が圧倒的に多い。
まず、そこを見直して「自分が幸せである自覚」を意識的にしないと釣り合わないんですよねぇ・・・
そのまま、ありのままの状態が幸せ、ということとなる、んだそうで、
私自身、まだいまいちピンときていないところがあるのだけど、
「自分が幸せである自覚」がたりていない、というところなのだろうか。
嬉しかった言葉の1つに、
たくさんの愛が集まって、いつも心がポカポカしていられるような一年になりますように。
というものがあった。
これは、私が温泉好きということと、自分でいうのもなんだが、癒し系、みたいなものがあるのかな、
という風に感じた。
笑顔が魅力。これからもみんなに笑顔を届けてね。
なんとも嬉しいひとこと。笑顔が魅力、ってすごく嬉しい。
最高に幸せな一年にー!とか、楽しいこともたくさんあるよ、とか、好きなことを好きなだけ、自分の為に!って言葉も響いた。
また、兄がよくお世話になっていたケーキ屋さんにてケーキを買って食べた。
オーソドックスなイチゴと生クリームのケーキを選んだ。
本当に美味しかった。
また、兄のある友達と食事もしてたくさん話した。そのお友達は、「悲しくて悲しくてたまらなくて、今日もどうなるかと思ってたんだけど、思ったより楽しく過ごせた」といってくれた。
兄の話をしていくとどうしても涙で潤んでしまう時があったが、時に面白いエピソードなど話せば笑顔に。そういう兄だったということか。
兄はずっと妹思いだったと仲がよかった友達はみんな言う。
私は映画「万引き家族」に出てくる兄妹のように兄の後ろを常についていくような、そんな妹だった。
そういえばこんなことがあった。
誕生石が入ったブレスレットが兄が亡くなって直ぐ後に切れた。
今思うと兄が守ってくれていたのかなぁ、と。
一緒に食事をしてくれた友達がこんなことを言っていた。
「もしかしたら添い寝してるかもよ?」
「えー!それはやめて?」思わずこう返してしまった。
お兄ちゃん、今頃どのマドンナのところにいるの?ねぇ、寅さん。