punimaruko157のブログ

主に急逝してしまった兄の話。

お母さんへ

 

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今年も母の日がやってくる。

母の日どころか春を待たずして母は亡くなってしまった。

 

今頃兄と一緒にいるかな?どうかな?

でも、ちょっとびっくりさせちゃったかもしれないよね。ごめんねお母さん。

お母さん、お兄ちゃんは?って私に聞いた時、とっさにちょっと疲れちゃってて、休んでるんだ、って答えちゃって。

とてもじゃないけど本当のことは私からは言えなかった。

ごめんね。お母さんも今なら私やお父さんの気持ちがわかったんじゃないかな。

 

お母さんが、「もう死にたい」って言ったとき、どうしてあげたらいいのかわからなくて。

頑張って歩こうと思ってリハビリしてた時、腰の骨を折っちゃって。

私もあれから事故にあってしまって骨盤を痛めたからその時お母さんの気持ちが少しわかったよ。

痛かったよね。自分で起き上がることができなくなってから何年も痛かったよね。
お母さん元々頑張り屋だから、痛みに対しても耐えてきたんだよね。

本当はもっと早くに楽になりたかったよね。ごめんねお母さん。

でもさ、お母さんの頑張りは忘れないからね。それだけは言える。

お昼ご飯を食べる時、途中でプリンを食べだして、終わりかと思いきやご飯もお味噌汁もきちんと飲み干してた姿、(お母さんは好きなものは先に食べるんだよね。)

おやつのカステラを、私にも分けてくれようとしたり、そんな可愛いお母さんも忘れない。

ある時は看護師さんに、私を妹、なんて言ってた事もあったっけ。さすがにびっくりしたよね。

私が撮った写真を見せた時、すごく興味津々に見てくれたね。桜の写真綺麗だった?

私がお寿司を頬張っている写真を見たらお母さん、大きな口開けて笑ってくれた。あの時のお母さんの顔だって忘れない。

 

お母さん、お兄ちゃんの事ももっと話したかったねぇ。

昔、男の方が余る(人口が少ないから)って言われてる、なんていう話をしてたけど、お兄ちゃん、とうとう結婚しなかったねぇ。

寅さんを見たら、これ俺じゃん、って思ったんだってさ。俺もマドンナ追いかけて全国回りたいよなんて言ってさ。おかしいよね。

 

お兄ちゃん、友達にも恵まれてたよね。葬儀の時も、たくさんの人が来てくれたの。

ありがたかった。友達が何度か来てくれたり、飲みに誘ってくれたりね。

でもさ、何より、お兄ちゃんの喪主なんてやりたくなかった。順番違うよ。ねぇお母さんもそう思うでしょ?

お母さんも本当はお兄ちゃんに見送って欲しかったよね?

 

私がお母さんに伝えたかった事、伝わってるのかわからないからこの手紙にも書くね。

お母さん、私とお兄ちゃんを兄妹にしてくれてありがとう。

ゆっくり休んでね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ピーマン

私は平成31年2月22日、毎日新聞本社にて、「私たちにもできる政治参加『#子育て政策聞いてみよう』」というイベントに足を運びました。

これは、未来の子育て全国ネットワーク(miraco)というチームが、毎日新聞社、株式会社GARDENと共に主催したイベント。

前半は各登壇者のプレゼン、後半は各テーブルに別れてディスカッション、というものだった。

登壇者は、中野区長の酒井直人さん、POTETO代表の古井康介さん、毎日新聞矢澤秀範さん、miraco塚田さん、穂積さん(後に中央区議選に立候補なさいました。)

という、どの方もいろんな視点で子育てについて語っていて、時間があっという間に過ぎていました。

 

私がとても印象深いなと思ったのは、POTETO代表の古井さんのプレゼンで、

「政治とはピーマンみたいなもの」と言ったことに軽い衝撃を受けました。

思いました。思い出しました。

そういえば私もピーマン嫌いだったなぁ、と。

私がピーマンを食べられるようになったのは、小学校の低学年の頃。

当時私は学校から家にではなく、おばあちゃんや親戚のお家に行くことがあった。

預けられていた。

親戚の今はもう会えなくなってしまったおばさんが、肉詰めにして食べさせてくれた。

それから私はピーマンが食べられるようになった。

 

何が言いたいのかというと、政治とは、生活を良くするためのものだということ。

実はすごく一人ひとりに密着したもの、ということなんです。

 

私の故郷である群馬県沼田市少子化の問題に対してまったなし、の状況である。

https://www.instagram.com/p/BwdrlzpFpAy/

本日のロングとアップ。近所にある母校をぶらりと。咲き乱れておりました。#寂しい #昔は三階建てだった #校歌歌えますか #自主自律

 

この写真は、私が通った中学校。

私が現役の中学生だった頃は、校舎が三階建だった。ブラスバンド部だった私は三階にあった音楽室に毎日足を運んだ。夏休みに入るとコンクールに向けて暑い中練習を重ねた。私の原点でもあるかもしれない。

 

生徒が減少していると言う事実に対しての工事だったのではという私の意見。

実は、私が中学在学中にも改築はありました。でもそれは、校舎の老朽化によるものでした。

私の学年は5クラス。1クラス35人くらいだった。ちなみに私の一個上の学年は6クラスだった。

私が通った中学がどうして改築されたのかは人口減少だけではないかもしれない。

はっきりとした事実は私はまだ知らない。

 

私が通った小学校にも足を運んでみた。

校舎はそのまま残っていた。最近は耐震補修工事もされていた。兄が生前教えてくれた。災害時などにも対応できるかと思う。

中庭には、チューリップもたくさん咲いていた。私は春に咲く桜やチューリップを教室から眺めることが大好きだった。一気にあの頃の私が戻ってきたような気分になった。

 

興味はクラス数、そしてクラスの人数。ちょっと窓から教室を「のぞいて」みた。机の数を見てみた。

私が通った小学校は現在2クラス。1クラス20人もいたかな?そんなにはいなかったようにも思える。とにかく後ろがすごく空いていたのを覚えている。

私が小学1年生の頃はひと学年3クラスで、1クラス30人くらいはいただろうか。一学年100人弱、という計算になる。教室の後ろまで机が並んでいた。

 

沼田市議会のある議員さんのお話によると、今年入学した児童は38人だったという。

私はまずびっくりした。私が育った小学校に入学した子が38人しかいなかったということ。

私は知らなかった。こんなにも少子化が進んでいるという事実を。

 

私は、8月に行われる沼田祭りに参加することがありました。お祭りについてはこちらを熟読してみてください。

www.city.numata.gunma.jp

 

父がお祭り大好きで、神輿ではなく山車(沼田ではまんど、って言います)でやる御囃子をやっていて。

私自身も小学校の低学年から毎年参加していた。7月に入ると練習がある。子供達が集まる。

父がその度に言っていた。「子供が少なくてなぁ。」「俺ん家の近所なんて子供いねぇしなぁ。」

それこそ、私が小学校の頃は近所の子たちと何となく集まって遊んでいたりした。

今はそう言った光景を見ることができないという。これもまた時代なのかもしれない。今は塾や習い事に時間を費やしているのかもしれない。

実家のご近所さんには本当は子供はいるのかもしれない。それはまだ私がつかめていない事実。

 

実際に御囃子の練習にお邪魔してみると、中学生、高校生の子たちが率先して笛を吹いて、自主的に練習を進めていた。昔からの幼馴染夫婦が率先して運営まで頑張っていた。 

途中でアイス休憩が入る。私が小学生の頃は大勢が一斉にアイスに向かって群がって争奪戦となっていた。

今は、なぜかみんな遠慮がちにしていた。これは時代の差なのかなどと思った。

 

こうして、たくさんの事実を述べることによって、私は何をしたらいいのか、私には何ができるのか、「考える」ことができると思う。

こういうことも、「政治」なんじゃないかと私は思う。そう。

こうやって、細かく砕いてハンバーグに入れたり、肉詰めにしたりして食べることによって克服できることなのでは、なんて思う。

 

待機児童ゼロ!男の産休義務化!日本を「子育てしやすい国」に変身させるプロジェクト - CAMPFIRE (キャンプファイヤー)

 

この、未来子育てネットワークさんが奮闘されている。

このブログを目にしてくださったあなたは、今子育てされてますか?

それとも、終わったよ、という方もおられるかもしれない。子供はいないよ、という方もいるかもしれない。私も今は自分の子供はいない。

どんな人でも安心して子育てできる群馬県沼田市に、日本になれたらいいと、心から願う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コインランドリー

ある雨の日だった。

私はたまった洗濯物をどうしようと困っていた。

コンビニも閉店してしまう田舎町。

その代わりにコインランドリーが増えていることに気づいた。

そのほかにアパートもまた、増えていた。

 

私は近所にあるコインランドリーに向かった。

コインランドリーは便利である。

洗剤、柔軟剤を入れる事なく洗濯、乾燥をしてくれる。

乾燥機にかけたとき、タオルがふっくらとしていた。

私は思い出した。

兄の家にあったタオルがふっくらとしていた。Tシャツも同様に。

そういえば、まず先に生活雑貨を買ったのは洗濯用洗剤と柔軟剤だった。

柔軟剤については、なかった。私はそこがすごく不思議に思っていた。

 

兄が亡くなったという一報を受けて警察から兄の自宅の鍵を預かり、家にあがってみた。

部屋の中には何枚かTシャツが干してあった。プラスチック製の青い物干しのハンガーにも、何枚かタオルがあったように思う。靴下もあっただろうか。

一年が過ぎてしまったので記憶が曖昧になっているかもしれない。これは私の印象という可能性もある。

印象、意見というものはとても怖い。これは、メディアリテラシーを語る事にも通じると私は考えている。

 

話を洗濯物に戻そう。

まずは洗濯機。兄は知人からいただいたという洗濯機を引っ越し以来、約20年は変える事なく使っていた。とりあえず動くので私も引き続き使っている。

 

そして、兄の家にあった服、タオルがふっくらとしていた。

兄はコインランドリーを利用していたのではないか、という私の意見ができた。

独り身だったので、洗濯機を買うよりコインランドリーの方が、と思ったのかもしれない。

 

部屋にかけてあった青い物干しハンガーには何枚かの洗濯物が干してあった。それには母の名前が書いてあった。

母は精神病院に長期入院していた。何度も入退院を繰り返していた。

回復してくると母は自分自身でリハビリとして洗濯をすることがあった。その時の物干しハンガーだった。

スーツが入っていたタンスのそばに、プラスチック製の白い物干しのハンガーが置いてあった。

これは?と思い広げてみた。所々壊れていて使えなくなっていた。兄は捨てる事がなく放置していた。

私はしばらくその青い物干しハンガーを使ってみた。

たくさん干そうとすると時々落ちてしまうことがあった。落ちるとプラスチックのあるところにひびが入っていることに気づいた。洗濯ばさみも何個か壊れてしまっていた。私はそこでひらめいた。

ある程度ためて洗濯してたけど、ハンガーが落ちてしまうので、コインランドリーを利用していたのではないか、ということを。

また、乾燥機を使うことでいい仕上がりになるので、こっちの方がてっとり早い、とも思っただろうか。

 

この事を知る人はいただろうか?こんなこと知ってどうなる?と思われた方もいらっしゃるかもしれない。

でも、私は知りたい。兄の42年間を。どう生きていたのかを。何を考え、どう行動していたのかを。

兄は自分のことをあまり人に言うことはなかった。妹の私でさえも。知らない事がたくさんあった。「俺のことはいいんだよ。」なんて言って。

兄の家に住むことで兄の姿が見えてくることがあった。

もっともっと、兄の話を聞きたかった。

 

そんな事を綴っている「今」も、雨が降っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

がんばり続ける

2018年の2月のある日だった。夕方の5時を過ぎていただろうか。

兄から一本の電話がきた。普段、LINEでのやり取りが主だったので、これは緊急を要すると思いすぐに電話にでた。

「母が危ない。」との連絡だった。

当時相模原市に住んでいた私はすぐに実家がある群馬県沼田市に向かった。

すぐに、と言っても神奈川県と群馬県なので3時間はゆうにかかってしまう。

ちょっとした旅行だ。

なので次の日に向かうことにした。

私はもしもの時にもと、礼服も持って母が当時入院していた病院に向かった。

 

病室に着くと、意識を取り戻した母と、父がそこにはいた。

父に話を聞くと、昨日連絡がきて夜通しずっと病院にいたという。おそらく母のそばにいたのでは、と推測する。兄は仕事に出かけたと父が言っていた。

 

私は、母の元に駆け寄り、「お母さん遅くなってごめんね。」と声をかけた。

母は声を発することなく視線を私の方に向けてくれた。

私は、母にこう伝えた。

「お母さん、もう少し、もう少しだけ頑張って。」

 

とりあえず父が昨夜から何も食べていないと言っていたので、最寄り駅の近くにある和食のファミレスでご飯を食べた。

父はお蕎麦を食べた。その時私はお腹は空いてなかったのでデザートを食べた。

 

次の日兄と落ち合った時、私は少し思い切って兄に伝えた。

「お母さん、もう死にたい、って言ってたよ。」

「あぁ。」少しびっくりした表情だった。

「お前に言ってたんだ。」

「そう。前、言ってた。」兄が知らなかった事実だったようだ。

 兄妹の中でも、母をどうしていいのか、「迷い」があった。

 

母は統合失調症という重い精神病を患っている中、私たち兄妹を産んで育ててくれた。

思う通りにいかないことが多かっただろうけど、頑張って育ててくれた。

いつも母は頑張っていた。病気に対しても。入院を繰り返していたけど、回復してくると早く退院したい。と自力で歩けるようにリハビリも頑張っていた。

 

こんなに頑張っていた母に、なんで私はもう少し頑張れ、などと言ったのだろう。

その後悔が日に日に増していった。

 

 

結果、その約一年後に母は亡くなった。

本当にがんばり続ける、私にとって誇りを持てるかわいい母から、私は産まれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

幸せ、とは

生前母親はこんなことを言っていた。

「お父さんとは結婚したくなかった。」

精神病を抱えていた母、当初それを知らなかった父。

 

母の死後、私と一緒に住みたいと言い出す父。まぁそうなりますよね。実は兄が亡くなった時もそう言っていて。

父は家に残っている家財道具を一切そのままで私のところに行くという。

それはできないと私は丁寧に説明した。

 

さらに聞いてみると、母と結婚するとき、実家に家財道具などをほぼ全部置いてきてそのまま今の家にきたという。

そして今ある食器棚など家財道具は全部母が用意したと。そういえば私が幼い頃母が話してくれたことを思い出した。

 

母はまたこんなことをカミングアウトしてくれた。これは母が元気な時実家で聞いた。

「本当は好きな人がいた。バツイチで子供もいた。」という。

母が好きな人とは結婚できなかったかもしれない。(おそらく)父の猛烈アタックがあったおかげで母のお腹に兄を授かった。

そして私が産まれて兄妹二人育ててくれた。

母は私を産んでよかったと言ってくれた。その顔は穏やかで優しい笑顔だった。

母自身は幸せだったんだろうか?それはもう想像してみるしかできなくなってしまった。

 

父が思わずぽろっと呟いたことがある。

「女は図々しい。」

すかさず私は「お母さんはどうだったの?」

「図々しくはなかった。」

 

 

私が想像するに母は父を断ることができなかったのかもしれない。

だけどその気持ちを上回る父の母に対する想いがあったから四十数年の間別れることなく夫婦でいられたんだと思う。

 

父は一度婿養子として結婚していたことがあった。

でもうまくいかず別れて独り身だったことが母への気持ちにも拍車がかかったんじゃないかと思う。

 

私も父と同じバツイチとなってしまった。

実は、知り合いからこういう人がいるんだけど、と(私のことをいい子だからと)何度か紹介されたことがある。

一度会って、そこから発展しなかったこともある。

もしも紹介された人と繋がって、結婚することがあったらそれはまた違う人生になっていたのかもしれない。

「私の」幸せは誰が決めるのだろう?どうあると幸せなのだろう?

 

 

誕生日

4月8日は私達兄妹を産んでくれた母の誕生日だ。

ちなみに、ピエール瀧さんや博多華丸さん、元AKB48高橋みなみさんも同じ誕生日だそうだ。

うちの母は、もしも生きていれば76歳になっていた。

 

 

我が家の風習として、誕生日をお祝いする、ということが全くと言っていいほどなかった。

その日、父にに電話をしてみたが、母の誕生日だったことには触れられなかった。

 

聞くと、母に何かプレゼントをすることはなかったという。

 

ところが、先日こんな事があった。

 

いつものようにお風呂に連れていこうと迎えに行ったら、「食えや。」といいながら、

あるものを手渡された。

バナナと卵だ。

 

話を聞くと、父は自分がいらないものを私にとものをやるという。

なんの為の私なんだと思ってしまった。

思えば、一緒に食べに行った食堂でも父は残したものを母に食べさせていた。

そこにも通じるものがあるのかな、と思った。

 

話を誕生日に戻そう。

 

誕生日というものは、誰しもが持っている「記念日」だ。

喜ばしい事である。

 

私は以前、入院していた母に聞いたことがある。

 

「お母さん私を産んでよかった?」

 

母は、「よかったよ。」と笑顔で答えてくれた。

 

その言葉を聞いて私は思わず涙ぐんでしまった。

 

当時、私は離婚をするかしないかの頃で、そもそも私は生まれてきてよかったのか?なんて悩む事もあって。

何か壁にぶつかると、生まれてきてよかったのか?とちょっと深い闇に陥ることがある。

もう今までに何回陥ったことか。

 

誕生日、それがどうした、って思う人もいるかもしれない。

生まれてきて嬉しかったんだよ、と親は子どもに伝えて欲しいし、子供は親に感謝を伝えて欲しい、と願う。

 

そうすることで、お互い(親子)の人権を守ることにも繋がるのでは、そんなことを思う。

 

 

進学

私達兄妹は、偶然にも同じ高校を卒業した。

商業高校だった。

 

その後の進路はというと、二人共就職を選んだ。選ばざるを得なかったといったらいいだろうか。

 

私は進学したかった。音大に行って、演奏家として活躍したかった。

 

以前私は兄にこんな事を聞いたことがある。

「学生時代の夢はなに?」

「ライターかな。」

 

兄にも夢があった。兄も夢を実現するために進学したいと願っていた。

 

親には、そんなお金がないと言われ、働くことを選んだ。

そんな私達兄妹がいる。

兄は、いつか進学できるようにと、お金を貯めていたらしい。

しかし、それは新しい車を買う為の頭金になったという。

 

 

その後、兄は仕事に必要な資格を取ったり、転職の準備にはPowerPointの勉強をしたりと、

仕事に対して本当に真面目に取り組んでいたことがわかった。

 

他にやってみたいことがあったことも確か。

兄はファッションにも興味があり、アパレル業に進みたいと履歴書を送っていた。

それらをやってみることなく亡くなってしまったのは本当に無念でならない。

 

私は、1人ひとりが輝ける場所づくりのためにできることをしたいと思う。