punimaruko157のブログ

主に急逝してしまった兄の話。

あの日のこと

平成30年3月15日深夜1時45分頃、私の兄は交通事故で息を引き取った。

 

私はその前日、シンガーソングライターのLOVEさんのライブをみに渋谷にいた。

http://lovesings.jp/

 

LOVEさんを知ってからもう10年は経っている。今でも大好きなアーティストの1人。

その日も聞きたい曲をたくさん披露してくれた。

私は上機嫌で渋谷を後にした。

当時、相模原に住んでいた私はライブがあった次の日、兄に会いにいく予定でいた。

目的は、「家族とはなんだろ?」というタイトルで動画を制作していたので、その続きとして、撮影できたら、と考えていた。

カメラを向けることで、家族とのコミュニケーションが生まれたことが1番の私の宝物となっていることも伝えたい。

音楽好きの兄に、ライブの話もできたら、とも考えていた。

今思えば、LINEだけでもしておくべきだったと、とても大きな後悔が私を苦しめる。

明日行くからね、なんでこの一言が伝えられなかったんだろう。

夜中の2時をまわった頃、私の携帯に一本の電話が入った。

なんだろ、と私は電話には出ずにいた。

また同じ番号でかかってくるので電話に出ると、

地元の病院からだった。

 

電話の内容は、

兄が交通事故にあって亡くなった、ということだった。すでに父親がいるということだった。その時母は入院していた。

心臓が出てきそうになる、ということはこういうことをいうのだなと思った。

私は慌てて実家に向かう準備をして、朝一の電車で向かった。

相模原から群馬県沼田市までの道のりが長いので、父のことが心配だった。

私は父が信頼していそうな人はと思いついたのが幼馴染のお祭りで一緒の女の子。

連絡を入れるとすぐに父の元に駆けつけてくれた。

私も新幹線で向かうと、駅に迎えに来てくれた。

彼女はいつものようにちょっとクールな感じで、「大変だけど頑張るんだよ」みたいなことを私に言ってくれた。

たわいのない話もしたかと思う。本当にあの時は助けられた。何度感謝をしても足りない。

朝の8時を過ぎた頃だろうか。病院にたどり着いた私はまずは父の元へ。

気が動転しているのもわかった。

「葬式どうする?」というのが父の第一声だった。

私はちょっと待って、まずはお兄ちゃんに会わせて。と霊安室に向かった。

看護師さんの立会いのもと兄と再会をした。

まさかこんな形で再会するとは思っても見ないし、その時は「お兄ちゃん何やってんの」という気持ちでいっぱいだった。

葬儀屋さんが病院まで迎えに来てくれて、改めて兄の顔を見てみた。

まるで「ちょっと寝てるから」、みたいな感じの顔をしていて、「起きてよ!」と言ったら起きるんじゃないか、なんて思えるほどでもあった。

お兄ちゃんのあの顔は一生忘れない。

 

その後も幼馴染ちゃんや近所の人、お兄ちゃんが大事にしていた飲み仲間や同級生、いろんな人が兄のところに来てくれた。

葬儀も、たくさんの方に参列していただいた。

何よりもそれが嬉しかったし、兄の存在の大きさに気づけた。

そして、悲しみの大きさを知って、兄のことが大好きだった自分に気づいた。

私が大好きなお兄ちゃん、お兄ちゃんが生きていたことを伝えたい。

 


3月課題(短いです(ノД`))

 

 

 

コンビニコーヒー

 

punimaruko157.hatenablog.com

 

私は、20代の前半の頃、コンビニでバイトをしていたことがあった。

当時車がなかったので、夕勤や土曜日の出勤の時、たまに迎えに来てもらうように兄に頼んだことが数回あった。

 

確か土曜日の出勤の時だった。

兄が迎えに来てくれて、私のシフトが終わるちょっと前に店に入ってきた。

するとドリンクのホットコーナーからコーヒーを一つとってレジに来た。一緒に働いていた先輩のパートさんが対応してくれた。

お兄ちゃんは、すぐさまテープでいいと伝えてくれた。相手のことを考えての一言が言える兄である。

パートさんに、お兄ちゃんです、なんて話したら、「かっこいいね。」と言ってくださった。

私は思わず謙遜してしまったけど、かっこいいお兄ちゃんだった。

 

 

 

兄にいろいろなお店に連れて行ってもらった時の話。

あるラーメン屋さんに入って、ラーメンと餃子、それから兄はお酒を頼んだ。

餃子とお酒、私の飲み物はすぐにきた。

しかし、待てど暮らせどラーメンは来ない。お店自体も終わりの時間に近づいていたせいもあったので、店員さんたちは片付けに入っているようだった。

「忘れてるよなぁ。」気づいた兄はどうしたかというと、そのまま餃子とお酒、私も飲み物を飲み干して帰ることに。

「どうするんだろう?」と私は思った。兄が先に会計をしていることに気づいて、ちょっと聞き耳を立ててみたら、店員さんにちゃんと伝えていました。

頼んだラーメンが来なかったですと。

私だったら言えないかもしれないなぁとその場で思いました。レジに行って、自分からは言えず、伝票を見た店員さんが気づく、みたいな感じになるのかなぁと。

「お兄ちゃんすごい!」

と私は思いました。すごくないですか?言えますか?

 

ここ、というときに大事な一言が言える兄でした。

本当にかっこいいお兄ちゃんでした。

 

 

 

 

 

 

はんぶんこ

うちの父親は、鳶職をしていた。

鳶というのは、家の基礎を作る仕事、と父親が言っていた。

実際に父が働く姿を見たことがなかったので、説明がぼんやりなのがちょっと申し訳ない。

 

たまに、建前だ(上棟式ともいう)と言って、オードブル(父はおり、と言っていました)をお土産に持ってくることがあった。

たまにお餅とか、硬貨(5円10円、50円、もあったかな)もあったりして。

 

オードブルの中には、鶏モモの骨つき照り焼き、みたいなのが決まってあって。

いつも母親が、「お兄ちゃんとはんぶんこね」なんて言ってた。

想像できるでしょうか。

骨側とモモ側と、という具合になる。

私は割と骨側を食べることが多くて。

それで喧嘩になることがあった。

喧嘩、というか、私が決まって泣いて、親がなだめるということが度々あった。

 

いつしか兄が折れて、鶏モモを私が独り占めするようになっていた。

あの時兄はどう考えて折れたのかな。

 

また食べたいな。「おり」に入ってた鶏モモ。

 

ビニール傘

私は、いつものように父親をお風呂に連れていった。

迎えに行くちょうどその時、雨が降っていた。

父のところにちゃんとした傘がないことを思い出した私は、家にあった割と新品のビニール傘を車に積んだ。

 

お風呂に入り、いつものところでごはんを食べ、送って行った時。

傘に気づいた父は元々あった”ちょっと古い“傘に手を添えた。

「あ、それだめ。お兄ちゃんのだから。」

「お父さんのはそんなに新しいのじゃない。」

「いいよ?お兄ちゃんのでよかったら持ってってもいいよ?」

最終的に父は兄の傘を持っていった。

 

私は父にも最後まで兄の事を忘れないでいてほしいと思っている。

もうなかったことにしたい、そう父が願っていたことを知った。

忘れないで、これは私の押し付けになるかもしれない。

だけど、少なくともわたしたち家族は自分の命がなくなるその日までは兄が生きていた、ということを胸に刻んでいかなくては、と考える。

 

 

 

おじいちゃん

私が小学校低学年の頃、父親のほうのおじいちゃんが亡くなった。

葬儀には何人来たのだろうか。幼心にもかなりの方がいたように思う。

 

おじいちゃんは、亡くなるまでずっと一人暮らしだった。誰かが面倒をみていた、というのは特別なかったように思う。

ボケはあったのかな?そこまではよく覚えていない。

たまに母親に連れられておじいちゃんの所に行ったのを覚えている。

 

その度に母が愚痴に近いことを言っていた。

「おじいちゃんは小遣いもださねぇ」

 

おじいちゃんが亡くなってからだと思う。

母の具合が悪くなって入院したのは。

 

母は昔、「普通がいちばん。でも普通、って難しい。」と言っていた。

当時の幼い私にはこの意味がよく分からなかった。

 

時折、ものすごい勢いで怒鳴りつけたり、いつも使わないようなものを突然買ってしまったり、全く体が動かなくなったりすることもあった。

 

この、「普通」という言葉。

一体どういうことを持って普通、なのか。

その普通、って誰が作っているのか。

 

「常識」

これも私にはなかった。

風習的なものも一切やらなかった。

7歳の頃の七五三は覚えてる。

 

母がよく言っていた。

「うちにはお金がない」

幼い私にも、なんとなくはわかっていた。

 

兄がなくなり、母が亡くなり、改めてこの話を聞いてみた。

「働いてた時、どのくらいもらってたの?」

「その時で違うけど、最高で15万くらいだな」

私は返す言葉がなかった。

よくその収入で子供2人を育てたな、と。父に対して怒りの感情が湧き上がっていた。

さらに、私は父に問うた。

「お母さんはどんな存在だったの?」

「結婚の墓場だ。」

「ちょっとぼんやりでわかんないんだけど。どういうこと?」

「そんなこと聞いてどうするん?」

「私のこれからの人生の糧にするんだよ。」

「そんなのねぇよ」

「反りがあわなかった。」

「あわなかったの?じゃあなんで私が生まれたの?なんでそういうことしたの?」

「そんなのどうだっていいだろ。」

父は都合が悪くなると逃げる癖がある。

 

 

 

この時点で私は諭した。

全部母がやってくれてたということ。兄のテニスのラケット、ホッケーのステッキ、遠征代、私には楽器(トロンボーン)を買ってくれた。

一日練習といえばお弁当も作ってくれたし、母は1度叔母さんと演奏会を見に来てくれたことがあった。

私は母に対する見方が変わった。

こんなことを母方の叔母さんが教えてくれた。

「結婚する前に病気(恐らく精神病)で入院した」

私は、これは父が無理やり母に迫った結果から病気になったのでは、と想像してしまった。

 

 

兄が亡くなって、父は私に面倒をみてくれ、と一緒に住みたいという。

からしたら、何故もっと早くに兄に言わなかったのか。

そこが疑問である。もう少し、兄からも、どうしようか、という話をしてくれてもよかったと思う。私もそこは反省すべき点ではある。

父は兄に対してよく面倒をみてくれた、と言っていた。一方で父は、兄が結婚しなくてよかったと言っていた。

また私は父に対して怒りの感情が出てきてしまった。

父は家族をどう思っているのか。

父のおじいちゃんの話を聞きたいと聞いてみたことがあった。

父は、「そんなの知らなくていい」と言っていた。

もしかしたら、私はその話を聞いてショックを受けるのかもしれない。

 

私はどこまで知っていけばいいのだろう?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カセットテープ

今ではもうCDの売り上げも落ち込んできていて、(詳しくは

一般社団法人 日本レコード協会のサイトをご覧ください。)

私が敬愛するドリカムさんもCDとして作品を残すのはあなたとトゥラッタッタ♪(ご存知朝ドラまんぷくの主題歌)が最後になるかも、なんて話もある。

あなたとトゥラッタッタ♪ / THE WAY I DREAM

あなたとトゥラッタッタ♪ / THE WAY I DREAM

 

 その昔、レコードがあって、CDが出てきて、そしてカセットというものがあった。

 

当時実家の近所、歩いて15分くらいだろうか。CDレンタル屋さんがあった。

CDを借りてきてはカセットに録音して、気に入ったものに関してはテープが伸びるほど聞く、ということをしていた方もいらっしゃるのだと思う。

私が中高の頃などはラジオから知ったアーティストさんやビートルズカーペンターズなどたくさんの音楽を聴いた。

 

兄が亡くなった後、兄の自宅で発見したものがあった。

玄関を入ってすぐのところに物置のようなところがある。そこの扉を開けるとビニール袋に入ったものを見つけた。

それを取り出してみると結構な量のカセットテープが。10本はあっただろうか。

 カセットの中には、どんな曲が入っているのか、書き込むラベルみたいなものが入っている。

私はよく兄にこのラベルの曲を書き込むことをさせられた。

兄が書く文字は、独特の「くせ」があった。わかりやすく書いて欲しかったのでは、と当時の私はよく思っていた。

私は、一本一本そのカセットテープに書き込まれたものを見てみた。

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ちょっとわかりづらいかもしれない。

拡大してみていただきたい。

 

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これが私が兄に頼まれて書いたもの。

性格、人柄、でているでしょうか?

 

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よく聞いていました。

ライブにも足を運んでいたようです。

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この時の様子も、「笑ったなー。」と少し興奮気味に私に話してくれたのを覚えています。

この他にも、ライブやフェスに行った時のことなど私や飲み仲間などによく話していた。

 

カセットにはなにも書かれていないものが大半でした。

どんな曲が入っているのだろう?

プレイヤーもないので聞くこともできない。

だけど、たくさんの音楽をきき、ライブやフェスにも足を運んで、兄は楽しんでいた、という事実は変わらない。消えないものとして、綴ることとする。

 

 

わさび

ここのところ、よくご馳走になることがある。

先日は、ウイスキーを飲んでいる方と一緒に飲んだ。

私は、ハイボールにして頂いた。

 

乾杯する時、「思い出のハイボール。」と私が言ったら、「どんな思い出があるの?」と聞いてくださった。

「お兄ちゃんがよく飲んでた。ビールの後ハイボールだった。」

「お兄ちゃんかぁ。よく歌ってた。音痴でね。笑」

「私はカラオケ行ったことないよー。」

「でも見たけどね。」

私は、最後の日に歌う兄を少し動画で見た。とても楽しそうに歌っている様子だった。

 

それから少し経って、ママさんがこんな話をしてくれた。

私の兄が、わさび味の柿の種を(お店に)持ってきてくれたことがあって。

私はピンときた。それは、私が長野に行ったお土産に買ったものだった。

兄から食べてるよ、の写真がLINEで送られてきたのを覚えている。データは飛んでしまったのだけど、記憶としてしっかりと覚えている。そのLINEが届いたということが私には嬉しかった。

ママさんは、他のお客さんにも、とおすそ分けをしようとある女性に声をかけたところ、

「それは邪道だから私は食べない。」と言われてしまったという。

兄は、嫌な気持ちとかも表には出さないほうだったので、その時の兄は何も言わなかったのだそう。

兄のいいところというかダメなところというか。

もっとちゃんと、「妹からのお土産だったんだよ。」とか言えば、もう少し女性の対応も変わったのかもしれない。